「全国革新議員会議」幕引きへ ②
参議院選挙のたびに「全国革新議員会議」のメンバーの中で、独自候補の擁立を模索した時代があったが、一度として擁立までには至らなかった。元々、群れるのが嫌いで、そのうえ個性豊かな一匹狼的な議員の集団につき、一つの目標に向けて共に戦う難しさを感じながらの交流だった。
革新無所属の議員でも、社民党には親近感を持つ一方で、共産党が嫌いな人は多い。だが、時と場合によっては「小異を残して大同につく」選択をしなければ政治は変わるものではない。私はこの信念を持ち続けている。後年、自らが市長選挙の確認団体の代表として、共産党、新社会党、私が率いる市民連合の三団体の共闘をまとめて市長選挙を戦った経験もある。私のような政治力と説得力でこの種の共闘を選択する革新無所属議員は稀有の存在のようであるが、政権交代が現実味を帯びてきた今こそ、この精神が野党各党に求められていると信じて疑わない。
「全国革新議員会議」はここで幕引きとなるが、"絶滅危惧種"らしき表現は、すでに九八年に出た『地方から政治を変える』(地方議員政策研究会・コモンズ)の第Ⅴ章の「市民派議員の歴史」の中にある。そこには同会議発足の経緯と傾向等と共に触れられている。また、結成時の呼びかけ人としての私に敬意を払っていただいたのか、贈呈いただいた本の中に私に関する記述があるのに驚き、大変光栄なことと受け止めさせていただいた。
『地方から政治を変える』(地方議員政策研究会・コモンズ)の「市民派議員の歴史」の中で松谷清氏(当時は静岡市議)は次のように書いている。
「私たちのように市民派と呼ばれる地方議員は、七〇年代に出現し始める。当時、ベトナム戦争に反対する平和運動が大きく盛り上がっていた。革新政党や労働組合からは距離を置き、市民の立場で平和運動を進めようという『ベトナムに平和を! 市民連合(べ平連)』に呼応する形で、各自治体で市民派と呼ばれる政党に属さない議員が登場してきた。七四年の参議院選挙では、三里塚空港反対同盟議長の戸村一作氏を候補者に、全国区(現在の比例区)選挙への挑戦が行われた。
選挙戦は敗北するが、これをきっかけに「全国革新議員会議」が結成される。議会では社会党や共産党よりも「左」に位置する、よくも悪くも「一匹狼的」存在で、高度成長期の都市部における無党派層の気分を反映していた。ふくおひろし議員(東京都武蔵村山市)が書いた『東京村デスマッチ議員奮戦記』(朝日新聞社、一九八七年)はその活動スタイルを代表する作品で、バイブル的存在である。全国革新議員会議は現在も一年に一回の交流集会をもち、各議会の問題点などの情報交換が行われている。国政との関係は、独自の潮流をめざしつつも、抵抗政党としての社会党との関係がもたれていた。会員は約百五十名だが、活動は徐々に分散化し、今後どうすべきかが問題となってきている(以下省略)」
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