生死を分けたとき
1945年8月15日、校庭に集合した私たちの耳に、後に"玉音放送"と言われる天皇の声がラジオから聞こえてきた。どうやら、戦争が終わったことを告げているようだった。
雑音が多くてはっきりと聞き取れなかったが、周囲から「おい、戦争は終わったようだぞ。おれたちは死ななくて済むよ」のざわめきがおき、たちまち大きな声になって広がっていったのを覚えている。
あれから64回目の敗戦記念日を迎えた今日、さまざまな思いが胸に去来する。あの"玉音放送"の日、私は師範学校(現北海道教育大学岩見沢校)の一年生だった。放送後に学校長の訓示があった後、寮の自室に戻ると、ほとんどの学生が荷物をまとめて家に帰る用意をしている。学校に届けも出さずに私も札幌の家に戻り、それ以来、学業に戻ることはなかった。
当時はまだ中退するとは決めていなかったが、家に戻ったところで遊んでいるわけにはいかないほど物資が不足していたし、食糧難で飢餓状態にあった。以来、仕事があると聞けば何でもやって生き延びなければならなかった。それ以来、学業に復帰する機会はなく退学してしまった。
師範学校入学の動機は、貧しい教育者の家庭だから、授業料も寮費も官費で勉強できる道を選んだつもりだったが、今では、学業を捨てざるを得なかったことに多少の後悔の念はある。
一方、多くの学生の入学の動機は別のところにあったようだ。太平洋戦争(当時は大東亜戦争と言った)も末期で熾烈化していた。それゆえに、男は皆、戦場に駆り出されて死ななければならないと教育されていた。新兵として召集され、上官の厳しいいじめを受けて戦場に送り出されて死ぬのなら、6、7階級飛びで将校に任命される特権がある学校に進学したというのが大多数の学生の入学の動機だった。そして毎週のように上級生が日の丸に送られて幹部候補生学校へと旅立って行った。
敗戦の少し前、比較的空襲の少なかった北海道にも米軍の艦載機の空襲があった。その日の一度目の空襲警報が鳴ったときは、ひどい下痢症状で動けない状態の私は、寮の同室の学生に抱えられて防空壕まで避難したが、二度目の警報が鳴ったときには布団から起き上がる気力が失せていた。「僕は残るから、皆、早く避難してください」と言うのがやっとだった。同室の連中がやむを得ず退避のために廊下に出ようとしたそのとき、上級生の一人が、「富久尾一人を残して行くわけには行かないから俺は残る。皆早く避難しろ」と言って部屋に残ってくれた。
まもなく、耳をつんざくような艦載機の機銃掃射の音が襲いかかった。頭から布団をかぶった私は、やがてその音が遠ざかるのを待って恐る恐る頭を出して上級生の姿を探した。彼は押入れの布団の中に頭を突っ込み、尻を外に出したまま震えていた。とっさに、「頭隠して尻隠さず」とはこのことかと笑い出しそうになったが、私のために残ってくれた先輩の名誉のために、このことは誰にも言わずに胸に秘めることにした。この敗戦の日を境にして会ったことはないが、どんな人生を送ったことか、多分、どこかで教職についたに違いないと思いながら、60数年も経った現在まで、多分「一緒に死んでもいい」と心に決めて病床の私を見守ってくれた先輩の心中はどんなものだったのか、今でも敗戦記念日が来るたびに、あの場面を鮮明に思い出しては感謝している。同時に「俺たちは、戦争で死ななくてもいいようだぞー」との、校庭のざわめきが蘇ってくるのである。
私の年代のものには、あの悲惨な戦争を知っているからこそ、そして軍国主義に翻弄されたからこその、強い平和への気持ちを後世に伝えたいとの思いがある。軍国主義から解放してくれたのは米国だったが、その国のバカブッシュが犯したイラク侵略戦争の尻馬に乗って全面的に協力したのが小泉政権である。同じ敗戦国でありながら、ドイツ等と異なり、我々国民の手で戦争犯罪者を裁かなかったのは大きな過ちだった。だから、若い政治家の中にもあの戦争を肯定し、南京大虐殺も従軍慰安婦問題も否定する議員が与野党に存在している現実がある。周辺諸国との真の友好的な外交を目指すのなら、このような政治家を国民の名によって淘汰しなければならない。その機会が迫ってきた
この記事へのトラックバック(0)
トラックバックURL: http://fukuohiroshi.net/mt/mt-tb.cgi/241

